メビウスの明晰夢。


 まどろみの中で目を覚ますと、兄がピアノを弾いていた。
 グランドピアノの置かれた教室、風にそよぐカーテン。体に残る睡魔の中身動きすると、思わず触れてしまったメトロノームが振り子時計のように鳴り出した。
「……?」
 見覚えがあるようで、ない光景。薄い膜を剥がすようにしてぼんやりと記憶を辿れば、ゆるやかに意識が覚醒していく。兄は、自分と同じ学校に通うことはなかった。六つ上の兄。自分が入学すれば、行き違いに卒業してしまう、そんな歳の差で自分たちは生まれた。
 冷静になっていくほど、考えが澱んでいく。ここは、どこだ――……?
 タイル状の木の板が磨き込まれた床、壁にはうっすらと落ちなくなった汚れ。
 どこにでも、いくらでもありそうな、ごく一般的で平凡な学校の教室の風景。
  学校の備品の中でも高価なグランドピアノがあるのは、一般的には音楽室だ。兄は確かにピアノが弾けた。合唱コンクールだの、音楽祭だの、皆で頑張って歌い ましょう的な行事の際は、率先してピアニストを務めることで、歌うことを放棄しているというようなことを本人が言っていた気がする。
 ……兄が、学生をしていた頃の話。
 ピアノの音は、繊細で可憐だ。女性的なイメージがある割に、腕力と手の大きさを必要とする、実は男性向きな打楽器なのに。
 美しい音色が、妙に不安を煽った。ただの夢だろうと押し込めれば、余計に耳の中で警鐘が鳴る。自分の心音が羽虫のように、やけに煩く感じられた。
「兄貴……?」
 化け物でも見るように、恐る恐ると声を掛ける。実際、自分はそんな顔をしていたのだろう。
 よく見ると、兄は、制服姿で――妙に、この風景にしっくりと馴染んでいた。どこにでもあるような、凡庸な学校の一室、音楽室。カーテンの外では、きっと野球部だかサッカー部だかが、よくわからない号令を掛けながら気合いで今日のトレーニングをやり過ごそうとしている。
 恐ろしいほどの違和感を感じる、はずだ。だって、兄は今、二十代の――……。
 そう考えて、言葉に詰まる。兄がゆっくりとこちらを向く。少し不機嫌そうにピアノの手を止め、奏者が座る、すぐにキィキィと鳴る椅子から上半身をこちらに向けて――詰襟姿の兄が、こちらを一瞥した。
 信じられないものを見た人間の顔というのを、今自分はしているに違いなかった。手の込んだ悪戯か、悪ふざけか、それでは少し、説明がつかない。
 詰襟の学生服が、当時の兄の制服と同じものだったのか、それは当時十歳にも満たなかった自分の記憶頼りでは、見当もつかない。
 ただ、今の兄が着れば、確実に窮屈だったろうし、やはり若々しい学生には見えなかったと思う。
 今、目の前にいる兄の姿は、歳より大人びてはいても自分の知るそれより幼く、無造作に伸ばした後ろ髪もなく、こざっぱりとした一学生として相応しいもので、丁度、約十年近く、時間を巻き戻したように見えた。
 青年というよりは、少年といっていい、その姿。思わず自分の手足を見ると、今とさほど変わりがない。おそらくは、兄と同年代の少年なのだ。
「兄貴、今……いや、今って……今、って……」
  頭が混乱して、口の中が乾いてくる。自分の知る今現在というものと、今目の前に広がる光景は、あまりにも乖離していた。今とは、一体いつのことなんだろう か。自分がそう思っていたものは、本当は夢の中の話で、ゲームに出てくる魔法使いのような存在とか、一寸浮世離れした何でも屋商売とか、よく考えればいるわけがないようなそうでもないような、なんだか倫理観や常識があやふやになってきて、ますます目眩がしてくる。どちらが正しいのか、今の自分にはもうよくわからなくなってきた。




「お前、居眠りした挙句、目覚めるなりそれか。何様なんだよ、てめーは」
 苛ついた兄の表情は、これ以上なく、自分の知る兄のもので、ふと安堵が胸に降りる。
 そうか、こっちが本当か、と。そりゃ、そうだ。魔法なんて、本当に使えるわけがないし。あの世界でも……あれは万能じゃなくて、魔法とは呼ばれていなかった。
「聞いてんのか、お前、赤点多すぎだろ。どーすんだ、こんなんで。
バカの見本みてぇな成績表しやがって」
 そう言われると、ピアノの譜面台には、○より×の多い真っ赤な答案用紙が並んでいる。
 確実に、自分のものである。
「仕方ないじゃん、俺は兄貴みたいに出来が良くないし、勉強も好きじゃないもんー。それに、兄貴が言うほどバカじゃねえし!」
 不意にそんな言葉が口をついて出る。どこかで感じる違和感は遠くて、ぺらぺらといつもの軽口が出てくる自分に、なんだかほっとした。
「そうは言ってもな、比較対象は俺なんだから、どうあったっててめーはバカで、向学心のない赤点野郎になるんだよ。まぁ、運動音痴呼ばわりはされないだけマシと思え」
「運動音痴なわけねーじゃん! 俺、体育はずっと5だし! 兄貴が化けモンすぎんだよ、オール5の成績表とか、全教科満点とか、実際すごいっていうか、すごい、すごい気持ち悪いーを含んだすごいだよあれ!」
 そうだ、兄は、ずっと首席だった。自分の物心がついた時からずっと、首席以外を取ってきたことはない。学校制度というものが、意味を為さなくなるのは、実際、学校を壊したがる不良生徒より、学校を必要としない優等生のせいであることが多い。
 優秀すぎると、ある種不良に近くなるということなのかもしれない。
 兄は優秀だが、いわゆる良い子の優等生とは程遠い生き物である。
「どこの学校にも、一人二人くらいは必ずいるんだよ、オール5の生徒くらい。そんなもんは、クラスで一番絵が上手いとか、部活でインターハイ出るとか、その程度のもんでしかねえよ」
 うんざりした顔。眉根の寄った顔は彫りが深く、端正で、くっきりした顔立ちの美形だ。今は、美少年と言ってもいいかもしれない。
 色素の薄い目が綺麗だと、クラスの女の子が言っていた気がする。でも、本当は目の色だけは、弟の自分とそっくりなのに。
 誰も気付いてくれないのが歯がゆくて、それとなく言ってみても軽く流されて終わって、いつも少しだけ落ち込んだ。
 本当は、兄と似ていると言われるのが、自分にとって一番の褒め言葉だった。
 そう言ってくれるのは、父と、母と……あとは、今少し、気になっている女の子だけ。
 心の中がほんのり浮き立って、見えない色が着く。彼女の色は、いつもどこか透明で、水を思わせる。
「言ってくれるよなー。そういうの、欲しくても手に入らないヤツ、たくさんいるだろ、きっとさー」
「要らねえのに押しつけられんのも面倒なんだよ。
お前まで、なんだかんだで勝手に色眼鏡で見られがちだろ」
  なぜか、心の中がひやっとした。本当は、自分の知っている兄はもう成長期を終え切った青年で、無造作に伸ばしてくくった後ろ髪を靡かせる姿も腹立たしいほ ど似合う、長い手脚をよく鍛えた大人の男のはずだ。黒いロングコートは、家のクローゼットに確か入っていたけれど、目の前にいるまだ幼い兄には少し早い感 じがした。
 自分の知る兄は、中学卒業とともに出奔していて、高校生活というものを送ったことがない。でも、今考えると常軌を逸した優秀さだったらしく、中学を卒業する時には、大学を三つほど卒業していたらしい。
 それに比べたら、オール5の成績表なんて可愛いものだろう。実際、この手の人間は、底が見えないことが困るのだ。
「い、色眼鏡で見られるってー? あれ? お、俺ってさー、兄貴と歳いくつ違うんだっけ。今、何年だっけ。今……」
  底の見えない不安で足元がぐらぐらした。この架空の少年時代を送っている兄と、今、学生服を着ている自分の歳は、どう考えても六歳差ではありえない。兄 は、どうしてここにいるのだろうか。本当は、どこの学校にだって行けたし、どこに行っても大して変わらない学生生活だったのかもしれない。
「お前、熱あるのか」
 呆れた顔の兄が、自分の額を掌ですくい上げた。決定的に違う、と感じた。
「……どうした?」
 兄は、こんなに自分に優しくないはずだ。
 いぶかしげにこちらを窺った後、ふいに笑顔を見せる。こんな顔を見たのは、きっとずっと昔のはずだ。
 点と点を結んで線にして、その線同士がぐちゃぐちゃに絡まって、やがてまた大きな点になった。
「……違う」
 拒絶は言葉よりも先に、自分の体を動かした。咄嗟に兄の手を払いのけて、驚いた顔の胸を力任せにどんと押した。
「どうした、お前」
 それでも困惑した顔を見ると、なんだか罪悪感があった。このひとは自分の知っている兄ではないけれど、確かに同じひとのような気がした。教室の匂いは教室の匂いだと言えば、なんだか納得してしまう。それと同じように、同じひとの匂いがした。




「兄貴はさ、今、中学生? それとも、高校生、だったっけ……」
 自分がやっと絞り出した言葉が見当違いすぎて、彼はやはり困ったようだった。むしろ、何を当たり前のことを、と思っていたのかもしれない。
「お前、やっぱりおかしいだろ」
 大きく溜息をついて、小さく、自分の肩をぽんぽんとしてくれた。彼は、優しい。
 振り返って、彼はピアノに向かった。自分の相手をするのに嫌気が差したのか、あるいは、少しほおっておいてやるから落ち着けということだったのかもしれない。
「あのさ、兄貴って、どんな――どんな、どんな風になりたかった? どんなことを、夢だと思ってた? あの頃は……」
 彼の優しさが、自分には辛く感じられた。声が、知らず知らず震えて、涙が出そうだった。急に足元が崩れて、そのまままっさかさまにほおり出されてしまうのではないかと感じるような、言い知れぬ不安だった。
「俺、 小さい頃は、兄貴みたいになりたかった……。何でも出来て、何をやらせても一番で、腹立つけど憧れて。ずっとそうだった……。大きくなっても、やっぱり、 兄貴を追っかけることしかできなかった。兄貴みたいになりたかった。兄貴になりたかった。でも、俺と兄貴は違いすぎて――」
 兄のようになりたかった。兄になりたかった。彼は、自分の欲しいものを総て持っている気がしていた。ずっと、彼は総て持っているから、何も欲しがらないのだと思っていた。
  透明な色を持つ彼女は、なぜかどちらの世界にも存在した。どちらでもさほど変わらない。彼女は、濡れ烏のような長い黒髪と、抜けるような白い肌と、蒼みの かかった美しい瞳と、彼の望みを叶えてくれる存在であればよかったのだ。自分より劣りすぎてはいけない、けれど、決して、自分より優れてはならない。世の 男のほとんどが潜在的に持つ業のような願望だ。
 ただ、彼にとって、自分の望みを叶えてくれるのは、彼女以外にはあり得なかった。ただそれだけの ことだ。物事にあまり執着がなかった兄は、彼女を病的に溺愛した。彼が執着できることは本当に数少なくて、女という女に興味がなかった。だから、彼の女と いう女への執着が、総て彼女へと向かった。何でも出来て何をやらせても一番の彼の総ての欲求が、ただひとりの女へと集まっていった。
 羨ましかった。
 それが、自分の知っている青年の兄のことだったけれど、でも、そうだ、自分が今気になる女の子として思い浮かべた彼女は、濡れ烏のような長い髪を清楚なお下げにして、蒼みのかかるほど色が白く透き通るような肌で、地味で控え目な優等生の――
「どうしたんだ?」
 ゆったりと、兄が微笑んだ。総てを悟られている気がした。急に恥ずかしくなって、汗の出るような暑さを覚えた。
  きっと、自分は兄の持ち物はみんな欲しくなるタイプの子供だった。そしてやっぱり、兄の欲しがるものは、自分にもなんとなく直感でわかるような気がした。 彼女はそのひとつ。小さな宝石箱のような宝箱に入れられた、とびきり綺麗なお人形。あれがなくては、宝箱の中はガラクタ同然のものばかりに見えてくる。ど うしたって、兄は彼女が欲しいのだろうし、そんな兄を見ていると、自分も欲しくなってしまうのだ。
「兄貴は、ずるいよ。結局、俺はいつも兄貴のことが、よくわかんないまま終わる」




 兄は、知らず知らずのうちに、自分ではなく、その向こうの窓を――窓の向こうの青空を、そこに描かれた飛行機雲を見ていた。
 この自分たちの通う学校には、首席の生徒同士を海外の姉妹校へ交換留学させる制度があった。この場合の首席は、希望者から繰り上がりなので、首席が希望しなければ、次席、さらに希望がなければその下へと権利が譲渡されていく。
 兄はいつも首席、彼女は次席か、順位が落ちてもその下か下くらいには入る優秀な生徒だった。兄とは違い、真面目で控え目で、学校としても文句なしの優等生だ。
 自分たち兄弟は、元々が混血だから、むしろ慣れ親しんだ日本の文化への執着が強く、わざわざ海外に留学なんてするつもりはない。そのつもりなら、別に学校の制度に頼らずとも、いつでも海外渡航できる身分だ。
 彼女は生粋の日本人で、ありがちな異国への漠然とした憧憬も持っていたのかもしれないし、なにより、勉学に対して真摯だった。
 それでも、彼女が首席に上がれたことはなかった。兄はいつも首席だったからだ。
「わかってたまるかよ。俺はてめーの兄貴なんだぞ。弟に上を行かれたら、兄として立つ瀬がねえだろうが。十年早えんだよ、クソガキ」
 鼻先で笑う、その表情が、どことなく無理をしていた。
 兄は留学の権利を放棄して――彼女が渡航することになった。そこまでは、ただの甘酸っぱい青春譚だった気がする。
  兄は、彼女とは殆ど、話をしたこともない間柄だったはずだ。年頃の子供が集まる共学校における男女間には、普通では考えられないくらいに隔たりがあるもの だ。男子は男子同士で群れ、女子は女子でグループを作る。学校社会で、仲の良い男女はあからさまな冷やかしの対象になる。兄としても、周囲の目を気にする 彼女と、あまり急に距離を詰めるわけにはいかなかったのだろう。
 それは普通の男子として、当然の配慮だったのかもしれない。
 彼女の 乗った飛行機が墜落した――という冗談のようなニュースを、誰が最初に口にしていたか、覚えていない。いつ頃のことだったのか。だいぶ前だったか、少し前 だったか。今さっき知らないどこかから漂流してきたばかりのような気分の自分が、なぜこんなによく知っているのか、それもわからない。自分の知る兄は、こ んなに感傷的で果敢ないひとではなかったはずだ。悲運を強運に変えるような人間だった。でも、自分は知っている。ここで大きな点になった目の前の世界も、 胸の奥で自分がいるべきだと思うもう一つの点になる世界のことも。総てではないけれど、どちらにも自分が存在してきた間の分の記憶がある。記憶の分だけ、 愛着もある。けれど、自分はこちらの人間ではないという、強い確証がある気がした。
 ただ、今ここにいる兄の想い人は、辛うじて死んではいないものの、限りなく死に近い場所にいる。それはこの世界における事実だ。




「空の向こうって、やっぱ死んだ人間しか行けないのか。量子論なんて、まだ観測技術がない以上は、ただの空想論に過ぎない。でも。……ふと思うんだ、シュ レーディンガーの猫理論みたいに、別の世界が並行して続いたりしてるんだろうか。ただの夢想だ。現実かどうかなんて、まだわからない。誰にも、わからな い……。まだ誰にもわからない。そのはずなんだ。
あれは猫が生きていた場合の仮説と死んでいた場合の仮説と、両方の結果を、同時に観測するべきも ので、結果を片方に収束させてしまうことにはあまり意味のない仮説で――あんなに有名なのに、結局まだ空想することしかできない理論で、学会でもすぐに否 定された有名ないわくつきの学説なんだよ。
シュレーディンガーは紛れもない本物の天才だって、きっと誰もがわかってたはずなのに。それで物理学を 辞めて生物学に行っても、結局成功してるんだから、天才の中の天才って言っていい部類のはずなんだ。でも、観測技術が未熟だから、今でもまだ空想仮説のま ま――けど、総てを理解できているような人間なんていない。知らないことのない人間なんていない。そんなの、頭おかしくなるだろ。
だから、そういうことが本当にあったって、ただ、俺が知らないだけで……。空の青だって、実際に空が青く色づいてるわけじゃなくて、大気が反射して青く見えるだけだからな」
 ぽつりと、独り言のように兄が言った。
「そうやって考えれば、絶対、可能性はゼロじゃなくなる……。そうだろ? 
大気圏や成層圏を抜けて、地球の重力から離れて宇宙を漂流することだけが、空の旅じゃないはずだ。
宇宙旅行はまだほとんど空想旅行とイコールだし、人間は地面からやたら離れたがる割に、まだ海の底にはたどり着けていない。この目に見える総てを、理解できているわけじゃない――」
 掌ですくえる何かをぎゅっと握りしめる、そんな仕草をして、兄はそう呟いていた。
 ただの男が言えば、ただの格好つけで終わる台詞と仕草。でも、自分にとって、少なくとも自分の目から見た兄という男は、ただの男では済まない人間だった。
 全能感に満ちたこの年頃の少年だけが持つ、意欲に燃えた眼差しも希望に縋るように噛み締めた唇も、思わず映画のようだと思って、その一瞬に見入ってしまった。
 兄は、本当に自分とは違う。
 何をやらせても完璧なように見え、事実、何をしていても様になってしまうのだ。
 彼が言うと、根拠のないただの夢物語すら現実に変わる気がした。
「じゃあ、あのさ……じゃあもし、俺が――空の向こうとは言わないけど、もしここにいる俺が、ここじゃないどこか違う世界から来た……って、言ったら、どうする?」
 こういう時、何と言ったらいいのか頭ではわからなかったはずだが、一度口を開いてみたら、自分のそれはまるで、小説かなにかの、いかにもな台詞のようで、却って気恥ずかしさを感じる。
「ここじゃない、どこか?」
「……そ、そう。ここじゃない、どこか」
  きょとんとしてこちらを見る兄と目が合ってしまったのが気まずくて、目を逸らして頬を掻いた。きっと単に、ちょっと寝ぼけて頭が混乱してるだけなんだ、と 自分でもわかるのに、なぜかそのことを忘れられなかった。魔法じゃないけど、魔法に似た強い力が使えるちょっと不思議な世界のこと。兄は今より大人だけれ ど、中身はもっと子供で、口が悪くて乱暴で、呆れるほど気が短くて、自分には冷たくて、他の人にはもっと冷たくて――それから、好きになった女の子をひた すら追い掛け回してどんどん変わっていったこと。
 兄は――目の前にいる、大人びた子供の兄は、少し考えて、そしてふと笑った。優しい顔だった。
「ここも、悪くはないだろ。普通で。
俺は、出来ればこうやって、平凡な人生を全うしてみたかったからな」
 ふいに、ああこのひとは、やっぱり自分の知っている兄なんだと思った。
 自分が自分の平凡を好きでないように、兄は兄の非凡が好きではなかったのだ。
 平凡な幸せと、非凡な幸せ、どちらのほうが、当人にとっては幸せなのか――。
 今まで気にも留めたことがなかった。
 自分はどこまでも平凡な人間で。平凡で凡庸で、どうあっても普通と呼ばれ平均的で。取るに足らない存在である自分が疎ましく、苛立たしく、たまらなくつまらない人間のように思えて。
 そしてそれが当たり前だったから。
 考えて、思い至る。非凡な幸せ、なんて聞き慣れない言葉を指すものは、きっと存在すらしないのだと。




「じゃあ――じゃあさ、例えば……」
 そして自分が何かを口にしようとすると、兄は何もかもを知っているかのように、
「自分でなんとかしろ。お前は、自分で思ってるほど、何も出来ない奴じゃないはずだ」
と言った。欲しかった言葉だった。
 風が強く吹き込んできて、ピアノや机の上にあったスコアを巻き上げていく。メトロノームの音が、出立を告げる汽笛のように聞こえて、さようならだとわかった。
 教室の窓枠が、違う世界を映している。
「……うん、ありがとう。もう行くよ」
「ああ」
 自分がここから去ったら、ここにいるべき自分がまたここに戻ってくるのだろうか。彼は、やはり自分のいるべき世界に同じように漂流していたのだろうか。
 考えてもわからないことを考えようとして、やめる。時間は待ってはくれない。
 今、この一瞬目の前にいてくれるだけで、もうこのひととは会えないのだ。自分の知る兄とは、違う兄。そう考えると、愁嘆場のような雰囲気を感じて、なんだかむず痒さを覚えた。この幼くて聡明な兄には、なんだか隠してきた心の奥底まで見透かされてしまった気がする。
「あ、あー……あのさ、じゃあさ」
 よく考えたら今の自分より年下のはずの兄が、達観した表情でこちらの旅立ちを見ているのが、なんとなく面白くないと思った。
「なんだ」
 渾身の含みを持たせてにやりとして、言ってやる。
「兄貴の好きな女の子って……――っていう名前の子?」
  途端、彼の顔が朱に染まって、一転して年頃の少年らしくなる。狙い通りで可笑しくて、思わず自分は声を上げて笑った。その笑い声が聞こえなくなる前にと、 自分より幼い兄は精一杯文句をわめき散らす。が、動揺しきっていて、なんだかわけのわからない罵倒の独り言でしかなく、自分が境界の白線に飲み込まれなが ら聞き流しているうちに、ただの独り言に変わって、最後に耳に残った。
「出来るなら、普通に……なってみたかった。普通に暮らして、普通に生活し て、普通に愚痴吐きながら、適当に勉強したりいやいやながらで仕事して、普通に誰かを好きになって、普通に結婚して、普通の家庭を築いて、普通に歳を取っ て、普通に死んでいく。そんな当たり前の人生が、俺にとっては雲の上の世界に思える。俺には平凡が似合わないらしいけど、そんなのどうでもいい。きっと、 ずっと憧れ続けてきた。
……でも、当たり前は、意外と難しい。普通って、すごく難しい」
 そうだね、そうかもしれない、と言ってあげる前に、そう言っていた相手は誰だっただろうと思った。
 気付いた時、なんだか妙な夢を見ていたなと思った。点と点を繋ぐと線になって、その線が絡まってまた大きな点になって、また別の点と繋がって線になる、とぼんやり思った。
 点や線は色んな色をしているけれど、点や線の外、線と線の外は白いのだろうと考えた。
 なんとなく、そう思った。

終わり。